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赤穂浪士 大石内蔵助の秘話 [伊勢 湯ノ山温泉と大石内蔵助の関わり]

6月三重県 湯ノ山温泉にて高校の同級会があるので、その土地の歴史を調べたところ、意外なことを知りましたので、披露させていただきます。

先ず湯ノ山温泉で有名なのは、大石、 涙橋 戦後 ケーブルカー 等ありますが、先ず大石については

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大石内蔵助と涙橋

湯ノ山温泉にて、愛人小柴大夫との悲しい別れ

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大石橋寄贈の小菅剣之助さんが地元に貢献された人物像



小菅 剣之助(こすげ けんのすけ/こすが けんのすけ[1]、元治2年1月24日(1865年2月19日) - 昭和19年(1944年)3月6日)は、将棋棋士(名誉名人)、実業家、国会議員。八代 伊藤宗印門下。愛知県名古屋市出身。

人物 [編集]庄屋の子として生まれる。1877年に上京して勉学に励んだが病気のために翌年一旦帰省。将棋を本格的に初めて1879年に再び上京し、八代 伊藤宗印に入門。二段となる。20歳で四段となり諸国を漫遊。1887年に三たび上京し、宗印の内弟子となる。1888年春六段。1893年七段。1904年八段。

師匠の宗印が亡くなった1893年に現役引退し、実業界に転じる。米穀取引の仲介を営みながら自身も相場をはった。失敗するたびに場所を変え、1900年に四日市市に落ち着く。その後株式売買、木材取引、土地開発に着手。1920年に当時の三重県1区から第14回衆議院議員総選挙に立候補して当選し衆議院議員となったが、一期務めただけで引退している。

1921年に名人に推されたが固辞し、関根金次郎を十三世名人に推挙した。

1936年の神田辰之助の八段昇段を巡って将棋界が分裂した際に調停の役割を果たし、「将棋大成会」の結成に尽力、自ら命名した。同年1月16日に名誉名人の称号を贈られた。1944年、熱海の別荘で死去。

八代伊藤宗印の実戦集「将棋名家手合」を編集した。

実業家としては四日市鉄道などの創設の他、東海電力、静岡電力、静岡電気鉄道などに名を連ねた。これらの事業は1934年に全て引退した。地元では市民病院、公会堂、商工会議所等を建設し、四日市市へ寄付をした。他にも四日市の港湾整備や工業発展に尽力している。また、私財を投じて米価暴騰に苦しむ人々を救済している。政治家としては自身の経験から米価安定が国民経済へ不可欠と考えて、米穀専売法を建議するものの、立憲政友会、憲政会の2大政党ではなく小政党に属したために通らなかった(同様の趣旨の食糧管理法は1942年に制定された)。


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