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特攻に反対した指揮官 [第二次世界大戦末期]

戦争末期一億総玉砕を唱える非常識軍部に批判的な軍人がいたことに
いくらか心が温まる思いであります。

部隊に打診のあった特攻作戦を撥ね付けて、これが黙認された第343海軍航空隊(343空)飛行長志賀淑雄少佐[26]の例もある。戦争末期でのこのような事例は珍しい。また、熟練者による夜間通常襲撃の有効性を主張し、特攻を指示する上層部を論破して終戦まで沖縄に夜間襲撃を続けた芙蓉部隊隊長の美濃部正少佐も部下に特攻をさせなかった人間として後世の評価は高い。第203海軍航空隊戦闘第303飛行隊長であった岡嶋清熊少佐も、特攻には断固反対であり、国賊と言われても自らの部隊からは特攻隊を出さなかった。玉音放送後も徹底抗戦を唱えて反乱状態となった厚木航空隊第302航空隊司令の小園安名大佐も、特攻には反対していたという。また、『桜花』(神雷特別攻撃隊)空輸の一式陸攻部隊の部隊長だった野中五郎少佐は、特攻には批判的だったが、自身は特攻作戦で戦死する。また部隊指揮官ではないが、エース・パイロットのひとり岩本徹三少尉は戦闘機搭乗員の立場から、「死んでは戦争は負けだ。戦闘機乗りは何度も戦って相手を多く落すのが仕事だ。一回の体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」と特攻拒否を公言して憚らなかった。

太平洋戦争敗戦につぃて

人命を軽く、欺瞞の目的で、将兵国民騙した、軍の最高幹部の責任は重い


戦争するには色々理由はあるでしょうが 勝敗が見えたら潔く降伏するか、
       和平を結ぶか状況により選択するのが、国の指導者(特に軍部)の役割だと思う、其の点日本軍部の最高幹部の対処は、万死にあたいする行為と確信しています。

後日奇縁ある関わり

美濃部正 少佐は 敗戦後航空自衛隊に入り、航空自衛隊幹部候補生学校
   10代校長 美濃部正 1969年4月1日 1970年6月30日 海兵64期 輸送航空団司令 退職

奈良市 航空自衛隊 奈良基地  航空自衛隊幹部候補生学校  正門

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