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忘れてはいけない 四日市空襲の記憶 [第2次世界大戦]

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(1945年6月18日 日曜日) 昭和20年6月18日 鈴鹿神戸旧制中学2年生でした
近鉄江戸橋近くの栗真村の同級生H君の家に遊びに行き暑い夏日なので
江戸橋の欄干から飛び込み泳いだ記憶があります、疲れて家に帰り熟睡してた
真夜中B-29の焼夷弾の洗礼受けたのです、其の時の記憶は鮮明に覚えています、
ちょうど我が家の雌寅猫が子供を産み押入れのの箱の中に5匹いましたが、私が取り合えず
2匹を両ポケットに入れ裏口から逃げましたが、途中6角形の長さ50cm位の焼夷弾がばらばら
落ちるのが目撃されましたが、意外と恐怖感はありませんでした、裏の鵜森神社から尚西の
田んぼの方まで逃げて助かりました、
あくる朝焼けた家に戻ると近所も皆焼けて焼土と化していました、勿論煤ぼけた焼け死体も何体か見ました、まさに地獄絵でした、同級生も焼夷弾の直撃で又焼け死んだ方がいます、諏訪神社の次男(旧制富田中学)2年生頭のいい少年と記憶してます、彼とは良く遊び 2,26 事件についての
話を聞いたことがあります

意外と知られていないのが塩浜地区の軍需工場えの爆撃です、この攻撃は爆撃艦載機Bー25によると聞いています時期はB-29の焼夷弾爆撃以前であること確かですが日時は忘れました
私の世代ではパソコンに馴染みが少ないので情報交換が難しいのが残念ですが
     戦災時の詳しい事件史実をご存知のかた色々教えてください。
記憶を思い出して書いたので間違いも多々あるかと思いますので遠慮なく訂正ください特に飛行機
の画像については専門家でないので自信がありませんからご指摘ください。

焼けだされた朝若松の叔父(母の弟)がおにぎりおかずお茶の見舞いを受けて感動したことを覚えています、引きつずき若松の叔父の家にお世話になりながら終戦まで学徒動員で鈴鹿第2航空廠
に通勤しました、当然艦載機グラマン戦闘機の機銃掃射も度々ときには小型爆弾も落とした記憶はあります、その間特攻隊兵の壮行儀式を見た記憶が微かにあります、天皇の玉音も暑い炎天下で聞きました、敗戦で 当時のお金で退職金100円貰い感激 県立旧制中学の月謝が5円当時の話

後日談 2匹の子猫は貰い手が多く即引き取られました
訳けは戦後の不衛生でねずみ退治に役立つからの理由です、勿論親猫も10年近く生き母親より
長生きでした、母親は1949年子宮癌を手術半年ご肝臓に転移3ヶ月ごには黄疸が発生

記憶を思い出して書いたので間違いも多々あるかと思いますので遠慮なく訂正ください特に飛行機
の画像については専門家でないので自信がありませんからご指摘ください。

                         alameda1313@ybb.ne.Jp 田中迄

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伊勢街道 栗真町 巡礼道の追分.jpgBoeing_B-29A_Superfortress_Composite_8803-8800_a.jpg

B-25 Pima Air Museum.jpg




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